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誤訳と外交の秘話

 


1969年佐藤・ニクソン会談

 

沖縄返還交渉でベトナム出撃を容認 公開外交文書に内幕

 『沖縄返還に向けて日米両政府が行った交渉の詳細が22日、外務省が公開した外交文書で分かった。1969年11月に開催された、佐藤栄作首相とニクソン大統領による首脳会談の公式記録も公表された。

 公開されたのは、主に50~70年代の外交文書約280冊分。

 

1月の首脳会談では、前年の大統領選で日本からの化繊製品輸入の規制を公約に掲げたニクソン大統領が、繊維問題に強い懸念を示していた。佐藤首相は「自分はその場限りの男ではない。誠意を尽くす」と、自主規制を約束したと取れる発言をしている。


1970年当時、日本の安い繊維製品が米国の繊維産業を圧迫しているとして、日本に繊維輸出の自主規制を求める要求が極めて強く、日米間の問題となっていました。日本の通産省の役人も、日本の繊維業界に味方して自主規制には反対の姿勢でした。

 問題の佐藤・ニクソン会談は1969年11月の19~21日に3回行われたようです。


 鳥飼玖美子氏の「歴史をかえた誤訳 (新潮文庫)」によると、佐藤ニクソン会談は、異文化コミュニケーションの分野ではコミュニケーションの失敗例として名高いそうです。

ニクソン大統領が日本の繊維輸出の自主規制を強く求めたのに対し、佐藤首相がどのように答え、どのように通訳されたかについては定説がなく、諸説あるそうです。「訳された外交官の方は秘密を墓場まで持っていかれました」ということになっています。

 

 佐藤総理訪米には、実は当時の石原慎太郎議員が同行しているのですね。石原氏の著書「国家なる幻影〈上〉―わが政治への反回想 (文春文庫)」には、その時のことが記されています。繊維問題が気になった石原氏が佐藤首相に尋ねたところ「ああ、だから、貴方のいうことはわかりますから、ま、努力はしましょうとだけいっておいたよ」ということでした。

 

さらに石原氏が、日本側通訳の赤谷源一氏にどのような通訳をしたか聞いたところ、「赤谷氏はこれまた簡単に答えてくれたが、確か"I understand what you mentioned, so I will make my best effort"とかいったものだった。いずれにせよそれは英語でははっきりYESを意味している印象だった」とのことです。石原氏が佐藤首相に「互いの思惑が行き違って大変なことになるのでは」と進言したところ、佐藤氏は急に不機嫌になったと言うことです。

 

 佐藤ニクソン会談についてニクソン大統領は、米国側は沖縄返還を認めたにもかかわらず、日本側は約束を反故にして繊維で譲歩しなかったと認識します。ニクソンは日本に裏切られたと感じ、後の二度にわたるニクソンショックで日米関係は最悪になった、というのが通説のようです。

 

このように謎に満ちた佐藤・ニクソン会談の内容ですが、今回の外交文書公開によってはじめて明らかになったということでしょうか。

 

こうしてみると、石原慎太郎氏が通訳から直接聞いたという"I understand what you

mentioned, so I will make my best effort"に加え、さらに踏み込んだ約束をしていたことが日本側公文書で明らかになりました。

 

しかし佐藤首相はこの約束を事実上反故にしました。というか、佐藤首相自身は、のらりくらりとかわしたつもりだったのでしょう。

 

 宮沢喜一氏の「私の履歴書」によると、1970年に通産相に就任した宮沢喜一氏が訪米して米国と交渉したところ、米国側から「総理のところに紙があるからその紙を見てきて欲しい」と言われ、佐藤首相に確認すると「そんなもんはない」と言われます。米国でも宮沢通産相は「そんな紙はない」と突っぱね、結局協議不調に終わりました。

 

その後の二度にわたるニクソンショックで日米関係は最悪になりました。